夏のサマー2016

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佐村河内守が見た「光」とは何だったのか?

 2014年2月4日のことだった。佐村河内守という全聾のクラシック音楽家が、自身の楽曲を他人に代作してもらっていた、と発表した。
 私はコンビニで告発の週刊誌を買い、代作者の記者会見をノーカットで視聴し、数時間おきに「佐村河内守」とGoogle検索して最新情報を追った。隅から隅まで動向を追い、一喜一憂していた。
 他にも重要なニュースはいくらでもあった。ソチオリンピックもあったし、STAP細胞が発表されたばかりだった。しかし、私は何よりも佐村河内守の事件に目を光らせていた。
 なぜこんなにも佐村河内守に心が惹かれてしまうのか。その理由を考えて、ふと合点がいった。──ああ、この人と私は同じ「闇」を抱えているのだな、と。

 闇。それは──30間近になってもまともな仕事ができず、クリエイターとしてパッとせず、かといってもう後戻りはできないんだろうという「闇」。

 佐村河内守は高校を卒業すると、まず京都の俳優養成所に入ったのだという。スター俳優として活躍する自分を夢想したのだろう。しかし、それは叶わなかった。ロック歌手をやろうとした。それもダメだった。
 自分の脳や身体から発せられる「何か」で世の中に影響を与えたい。文化史にインパクトを残したい。佐村河内守を突き動かしたのはそんな衝動だったはずだ。
 けれども、その旅路は順調なスタートとはならなかった。鼻っ柱を折られても、それでもすがりつき、何とか道はないかともがく。25を過ぎてからの佐村河内守はそんな日々を送っていたはずだ。
 映画音楽の仕事を得ても、何だかパッとしない。自分の才能が中途半端なことは、自分が一番わかっている。この音楽にもっと荘厳なクラシック的なイメージを付け加えたい。だが、自分にはその力がない……。

 代作者である新垣隆との出会いは、佐村河内守には「運命」に思えたことだろう。彼は確信に震えたはずだ。この方法ならいける。この手法ならば、自分のイメージに近い音楽を、自分が納得できるクオリティーで世に出すことができる。その感動に打ち震えたのだと思う。
 それはまさしく闇の中に灯る一筋の「光」だったはずだ。その光に導かれるまま、彼は開けてしまったのだ。禁断の扉を。

 私にはわかる。佐村河内守の苦悩と、光明を見出したときの感動と、この方法だったらいけるという確信が。
 一流との差を自覚しつつ、かといって引き返すことはできず、自分の道をひたらす模索するしかない受難。佐村河内守の苦難は決して特別なものではなく、現在進行形で多くの人間が抱えていることだ。彼のニュースに注目が集まった理由にはそんな側面がある。佐村河内守の闇に自分を見出しているのだ。

 彼の疑惑にまみれた人生の中で、間違いのない真実があるとすれば、新垣隆に光を見出したということだろう。
 佐村河内守が見た「光」。それは新垣隆だ。しかし、彼は新垣隆を悪い方向に利用してしまった。最初からユニットとして活動していればよかったのだ。「あなたは天才だ。僕のインスピレーションを増幅させてくれる。一緒にやりませんか?」。そうやってパートナーシップを組めばよかった。

 来年、森達也が監督した佐村河内守のドキュメンタリーが公開されるという。そこで「光」はどう描かれるのだろうか。私の願いは「光」を、ちゃんと「光」として描いてほしいということである。

 私はまだ「光」を探してもがいている。そして、それはこのまま見つからないのかもしれない。

(おわり)

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